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以下はそのまま出します。映画館で見て書かれた批評です(原文では「蓮實重臣」と書かれていましたがパンフレットに書かれた「蓮実重臣」と訂正します。たいへん失礼いたしました)。この批評は蓮実重臣のメロディを軸にして書かれたもので、音楽を軸にして書かれた私の最初の(おそらく最後の)批評であり、以降、そのような芸当はできていません。2023年5月9日 藤村隆史。

2023.5.9藤村隆史映画批評

「私は猫ストーカー」(2009)鈴木卓爾 うそとほんとうのあいだで 初出2009.10.13

池田千鶴「東南角部屋二階の女」(2008)のように、ズーっとスクリーンがスタンダードサイズに縮まっていって始まるこの作品は、それだけで何か誰かが怒っているような感じがしてならないのだが、秋も深まった東京下町の午後の商店街を、ちょっとした俯瞰で見おろしながら、ワツチを深めに被り、オーバーコートに身を包み、屋根や造作の影が路地の2/3ほどを覆っている商店街の路地を挙動不審の足取でもって這うように歩いている一人の娘をロングショットの画面に捉えている。まずもってこの路地の影の落ち方はただ事ではない、まるで「山の音」(1954)の鎌倉の自宅前のあの路地に落ちた影ではないか、、と呟く私を察したかのように、画面は次のショットで180度切り返されて娘を正面から捉えると、路地に落ちていた「山の音」の影は、真上から垂直に突き刺さる真っ昼間の太陽光線によって消されてしまう。

そこへ蓮実重臣の、映画の中で全部で8回入ることになるメロディの中の最初のメロディが画面を包み込む。娘は身をかがめ、「猫ストーカー」が開始され、タイトルが入って来る。とある下町の狭い路地と、人一人がやっとの事で通れるような狭い古本屋と、狭苦しいアパート。

最近は、疲れる批評ばかり書いてきたので、今回はこの断章的な映画に合わせて、私も断片的に力を抜いて書き並べて行きたい。批評を出す時期においてもまた、「時評」の賞味期限が切れたこのくらいがちょうど良い感じである。

■羅列すること

まずはこの映画の音楽を担当している蓮実重臣の音楽の入った時期を羅列しながら糸口を探って行きたい。

蓮実重臣のメロディは全部で8箇所入っている。

     オープニングの二番目のショットから

     430分に起床した星野真里が猫ストーカーに出かける姿をローアングルで捉えた時

     星野真里が、境内で猫仙人とだんごを食べ終わり、別れたあと

     坊主の諏訪太郎と別れたあと、塀の上に猫を見つけたとき

     行方不明になっていた坂井真紀が古書店の自宅に帰って来たあと、商店街を歩く星野真里を手持ちカメラのローアングルで捉えた時

     仲直りをした坂井真紀と徳井優の姿を、古本屋のレジから星野真里と江口のりこが覗き見したあと、どこかの学校のアンツーカーの校庭を俯瞰からロングショットで捉えた時

     裏路地でチビトムの首輪が落ち、道端のススキが風に揺れはじめたとき

     エンドロールで

ランダムに考察していきたい。まず⑦『裏路地でチビトムの首輪が落ち、道端のススキが風に揺れはじめたとき』だが、ここにおいて道の左端に56本立っているススキの様子はただごとではない。小さく揺れるススキの表面が夕陽をキラキラと受け止めながら、チビトムが去ったあと、ススキたちは秋の冷たい風に大きく揺れ始る。私には、どうあってもこれは「うそ」にしか見えない。つまり「豊である」ということだが、冒頭でも指摘したとおり、決してこの映画は『われわれは「山の音」(1954)を撮りません』という映画として成立しており、現代に生きる若い映画監督を導くキャメラマンたむらまさき等ベテランたちの意気地がひとつとなって画面を包み込んでいるように見えてならないのだが、映画人とは、「山の音」を撮れないと知りながら、まず身近な小さな細部を綴ってゆく人たちと、「山の音」を撮っているように見せることができると高をくくり、小さな細部を無視して撮ってしまう人々に二分される。この映画の「ススキ」とは、まさに現代の「山の音」として撮られたものでありながら、決してそれを大きく見せない細部の輝きである。

こうして「たむらまさき」をまず書いてみると、この映画には空間的な「狭さ」というものがそれとなしに見えてくる。そもそも冒頭の第一番目のショットを想起してみると、画面の中に妖しき猫ストーカー、星野真里を俯瞰気味のロングショットで捉えながら、キャメラの手前に何台か車が通過しているのが見える。その通過してゆく車がまったくもって「ぼやけている」ことからして、このショットは相当の「望遠レンズ」で撮っていることが見えてくるのである。空間を「圧縮」しているのだ。

④のシークエンスを見てみたい。正体不明の坊主、諏訪太郎との一時のランデブーの後、娘は家の垣根の上に見つけた猫を追いかけて行く。猫の小屋をバックに三匹の猫を捉えたショットが問題のそれなのだが、近景として映し出されている猫とキャメラとのあいだに、ここでもまた自転車らしきものが何度か通過しているのである。問題なのは、その自転車が、まったきボヤけているという事実である。この自転車が果たして「ほんとう」なのか「うそ(エキストラ)」なのかさえ映画的には極めて重要な事実であると示唆しているようでもあり、ここでもまた空間は望遠レンズによって「圧縮」されているという事実が私を放さないのである。ここでは「猫を刺激しないように撮るため」というのがまずもって常識的な理由として考えられるだろう。その場合、空間を圧縮することが目的ではなく、望遠レンズで「遠くから撮る」ことが目的とされていることになる。

■猫を刺激しない映画・・・・

この映画は「猫を刺激しない」ように「動物愛護の精神」に基づいて撮られた「優しい」映画なのか。

②のシークエンスを見てみたい。朝、四時半に起床した星野真里は、猫ストーカールックに身を包んで狭い路地へふわりと飛び出し、ローアングルのキャメラに捉えられた彼女の上半身には、これまた「山の音」(1954)の鎌倉の狭い路地をゆく原節子と山村聡に当てられたような、道行く木々の影が映っては消えて行くを繰り返している。しばらくして彼女は、猫の額のような狭い庭に面した路地裏に猫を発見し、身を屈め、ローアングルから猫を観察し始める。キャメラはローアングルから彼女を正面から捉えたショットと、猫を捉えたショットとを構図=逆構図による切返しによって何度か捉えてゆくのだが、路地が狭いこともあってか、彼女と猫とが同一の場面に収まることは一度もない。猫を撮ったショットは、星野真里の「見た目のショット=主観ショット」として撮られており、物語的な体裁上は、あくまで猫は、星野真里という、か弱き猫ストーカーの娘に見つめられ、それに対して見返していることになる。だが物語上のお約束を抜きにすれば、実際あの主観ショットは「カメラを担いだキャメラマンの見た目」によって撮られたものであり、事実として猫が見つめているのは「星野真里」ではない。「カメラを担いだたむらまさき」なのである。猫の目をよく観察してみよう。

恐怖に怯えている。

猫は「おとなしそうな星野真里」を見つめているのではない。地面に這いつくばってカメラを構え、ローアングルの必死の形相で「星野真里の見た目のショット」を撮ろうとして猫を狙っている「たむらまさき」を見返しているのだ。その異様な光景を前にして猫に「怯えるな」というのが無理な相談である。

さらに「たむらまさき」はこのシークエンスにおいて、「星野真里の主観ショット」として、逃げ惑う猫たちを塀の上や路地に追い詰め、恐怖のどん底に喘ぐ猫たちの迫真の演技をキャメラに収めている。どこをどう突付けばこれらが「か弱き星野真里の見た目のショット」として成立するのか、この馬鹿馬鹿しさに思わず笑いを禁じえなかった私であったが、物語的には「か弱き星野真里に見つめられている」はずの猫たちが見ていたのが、実は大きなカメラを抱えて突進してくる「たむらまさき」であるという裏事実が、遡ってたむらまさきは、あるいは鈴木卓爾は、そもそもこの主観のショットを「か弱い娘の見た目のショット」として「ほんとうらしく」撮る意志などさらさらなかったのではないか、と思わせるに足りるところの猫たちの恐怖の姿が惜しげもなく撮られているのである。

⑤のあと、星野真里は朝の四時に起床し、ご先祖に手を合わせている大家の麻生美代子のエプロン一杯にりんごを包み込ませたあと、そのジョン・フォードからビクトル・エリセへと受け継がれたエプロンの記憶も去らぬ明け方の商店街で、星野真里は人間ストーカー?の宮崎将と出くわし、「私は猫ストーカーです」と神経症を打ち明けながら泣いたあとの公園での猫の扱いについても同じである。宮崎将はひたすら子猫を「突付いて」いる。いや「小突いている」といった方が言語として適切だろう。これは間違っても「距離を置いて自然に、優しく」という感じではない。

さらに凄いのは④のあとだ。夫の徳井優と夫婦喧嘩をした坂井真紀は、古本屋の奥の狭い通路に夫の横に椅子を並べて座り、飼い猫のチビトムを膝の上に乗せてあやしている。夫婦喧嘩の怒りを静めるように、坂井真紀は膝の上に寝そべっている猫のチビトムを可愛がるのだが、次第に怒りがナマの坂井真紀を支配し始めたのか、その可愛がり方が最早「可愛がる」を通り越し「いじくりまわす」へとエスカレートして行き、ついには「手持ち無沙汰的小突き回し」へと進化されてゆく。もちろん見ている我々もまたある種の危険を本能的に感じ取り、それ以上猫を小突くと危ない、猫が大きくなるとライオンになることを知らないのかと、画面そのものがナマとしてのサスペンスに包まれるや否やのそのとき、坂井真紀はチビトムに「がぶり!」と右の二の腕のあたりをやられるのだ。この断章的な映画に「ほんとうらしい」瞬間があるとすれば、おそらくここだけだろう。坂井真紀の一連の「猫可愛がり」は、「がぶり!」へと必然的に「ほんとうらしく」流れて行き、見ている我々をして「あわれみ」と「おそれ」を喚起させるに十分な因果関係に支配されているのだ。

長袖を着ていたために直接ではないにしても、それでも「ちゃんと」坂井真紀は噛まれている。これはいったい何ごとなのだろう。坂井真紀はまったく取り乱しもせず、チビドムに謝罪をしながら平然とあやし続けているのだが、それは確かに「女優!」という響きの凄さを感じさせるものであるとしても、だが、この映画の「うそっぽさ」を肌身に感じながら見ている私としては、「ひょっとしてこれは演出では、、」というとてつもない疑念(不思議)に包まれてしまうのだ。ひょっとしてこれはすべて宮台真司のように「織り込み済み」なのではないか。宮台真司は、人が反論してもそれはすべて「織り込み済みです」と返す事で有名らしいが、坂井真紀がチビトムに噛まれることもまたすべて「宮台型」なのではないか、そうすると、坂井真紀の右腕の袖の下には噛まれてもいいようにサポーターか何かが予め巻かれていたということも十分にあり得るということになる訳である。

この映画はそうした不思議を幾度となく感じさせてしまう、それが「豊かさ」だと私は言いたいわけだが、本論に戻ると、この映画の「望遠」レンズの使用は、確かに「猫を刺激しない」という趣旨もあるではあろうが、それと平行して、この世界を、とある「小宇宙」としての不思議なシュルレアルの空間にすることにも関与しているのだ。この映画は、下町としての「谷根千」という実際の場所を舞台にしているが、キャメラのレンズによって大きく圧縮された下町は、「実際の谷根千」を、第三の不思議な町に圧縮して撮られているため、次第次第に「谷根千」という対象が希薄になって行き、映画は「ミメーシス再現)」から「フィクション」へと気持ち良く流れて行くのである。

事実この映画は、古本屋、路地、神社、星野真里のアパートという場所を軸として進んでゆくのだが、それらが共通して「狭い」のである。小さな古本屋の通路は人一人通るのがやっとであり、事実夫婦喧嘩で夫婦が通路に椅子を並べて座ってしまうと、店員の江口のりこは「トイレに行けない」と、その「狭さ」を強調しているし、②のシークエンスで星野真里が猫を見つけた路地裏は、ジョーロを持って出て来た怪しき瀬々敬久の庭が「猫のひたい」のようであったように、これまた人一人通れるかどうかの「狭さ」であったことは偶然ではないだろう。星野真里の安アパートもまた見事に狭いし、⑤のあと、宮崎将と二人で行った公園で猫を突付くシークエンスにおいても、いかにもローアングルで「狭く」撮られている。

そうしたことを視覚的に駄目押しするかのようにして、⑥の直後、画面は町を俯瞰から捉えたロングショットへと移行したあと、町は、蓮実重臣のファンタジックなメロディと、浅生ハルミンのイラストの世界によって包まれてしまうのである。それは、この「私は猫ストーカー」という映画が「外部」との接点を消去された「小宇宙」であるからにほかならない。この映画は、物語的には「谷根千」という現実に存在する「現実=外部」を再現することに意味を持たせているようでありながら、その一方では=画面の露呈におけるあらゆる瞬間に「谷根千」という「外部」からどんどん離れて行き、生き生きとした時間と空間を得て輝くのである。

「音」はどうだろうか。

■音~音響設計 菊池信之

まずこの映画で聞こえて来た「音」の中で、「物語に関係の薄い音」を羅列してみよう。

①古本屋
店先で止まるようなオートバイのエンジン音、豆腐屋のラッパ、バタン!とドアの開閉する音、坂井真紀が棚の本を押し入れる音、本をハタキで叩く音、引き出しを開ける音、救急車のサイレン、通過する自転車の音

②星野真里のアパート
元かれとの電話中突如聞こえて来る夕立らしき音、りんごを磨く音、冷蔵庫の中から落ちたりんごが床に落ちクルクル回転する音、ダンボールを解体しガムテープを剥がす音、ビニール袋にゴミを入れる音、アパートの廊下での江口のりこの足音、

③家の外に出た時
風の音、鉄工所の作業音、カラスの鳴き声、雑踏の音、神社の側の駅を通過する電車のガタンゴトンという音。

これらの、物語に直接関係しない音声の数々は極めて「ナマの音」に近く、スタジオシステム全盛時には決して録られず、録られても排除されたか録り直しされたであろうところの異質の音である。しかしこの映画自身が一見「現実的(ナマ)」にように見えて実は「フィクション」の度合いが優勢になり、モデルたる現実の模倣から実は離れてゆくことを視覚的に、或いは音楽的に検討してきた私としては、ここに列挙された音声がすべて「ナマの音」である、などという事実は到底受け容れることはできない。そうするにはこの映画の人格は、余りにも「妖しい」のである。おそらくここで録られた多くの音は、例えば猫の鳴き声は実際の猫の鳴き声であり、バイクの音は実際のバイクの音であり、それは波の音を砂で出すといった擬音ではないかもしれない。そしてまた、例えば画面の外部から聞こえて来るカラスの鳴き声に猫(チビトム)と星野真里が同時にびっくりして上を見上げたり、また、星野真里のアパートの「元かれ」との電話のシークエンスの途中で夕立が降ってきたりという音(次のショットでは雨音は消されている)、そういう「ハプニング的な音声」がそのまま入っているのを聞いていると、「シンクロ(同時録音)」で撮られている(ように見え、ように聞こえる)。しかし「シンクロ」だからといって画面の上に振動した音声は「ホンモノ」ということにはならない。音を上から重ねてしまえばいくらでも「うそ」はつけるのである。音声は、映像以上に「うそ」のつき易い分野であり、従って録音技師にも「嘘つき」が多い。

それはジョークである。

■うそかほんとうか

さて、

本屋①では、そもそも坂井真紀が大事な商品である本を手で乱暴にパンパン押し入れたり、はたきで叩いたりしているが、こういうのは「音を出す」ためにわざとやっているとしか思えないし、星野真里のアパートでも、何もわざわざダンボールを折って解体し、ダンボールに付着したガムテープまでわざわざ無理に引き剥がして物凄い音をさせることはないわけで、江口のりこがアパートの廊下でたてている「大きな足音」にしても、冷蔵庫から落ちたりんごが回転するショットにしても、明らかに「音」を意識して撮られ
(録られ)ている。この映画は「音を出せ令」に服しているのだ。それは、間違っても「そこにあって自然に出て来た音をそのまま自然に録りましょう」などというリアリズム精神で録られてはいない。店の中に聞こえて来る豆腐屋のラッパの音や、救急車のサイレンの音、通り過ぎる自転車やバイクの音などにしても、それは現実に「画面の外部」からの音声である以上、「ホンモノ」であるという保証はどこにもない。否、この映画には一見「ホンモノ」のように聞こえながら、実は「ホンモノである保証はどこにもない」という音声で満ちている。我々が、その音声を『生き生きしている』と感じるのは、その音声が「ホンモノ」であるかのように聞こえる時ではない。「ホンモノである保証はどこにもない」と聞こえるときである。映画は、「オリジナル」にせよ「原作」にせよ「物語」にせよ、画面を背後から超越的に縛っている「不動の外部」の鎖から解き放たれた時、初めて「時間」という「自由」を得て生き生きとするのである。

「私は猫ストーカー」はさも「この映画は実在です」というようであり、加えて万人受けする善良さを物語的に誇示しているようにも聞こえる。だが細部に目を凝らし、聞き耳を立てながら画面と見ると「現実=ナマモノ」であるはずの視覚が、仕草が、キャメラのレンズが、モンタージュが、場所が、そして音が、すぐさま運動によって自己否定されてゆくところの心地良い肯定を確認できるのである。

そうやって考えてみると、さきほど例に上げた、序盤の路地の散歩で、上のほうでカラスの叫び声がして猫(チビトム)と星野真里が同時に驚いて上を見上げて「びっくりしたね、、」と猫(チビトム)に話しかけるシーンもいささか妖しさを帯びてくる。実際カラスの映像は画面の中に入っていない。叫び声は「画面の外部」から聞こえて来た「ことになっている」のである。これが妖しい。ほんとうは二階の方で、助監督あたりがシンバルか何かを「ガチャーン!」と叩いた音を「カラスの鳴き声」に仕立てて猫(チビトム)をびっくりさせたことも十分に有りうるのだ。それは前述の、星野真里の見た目のショットとして呈示されていたものが、実際にはたまらまさきの見た目としてモンタージュされた「うそ」であったのとちっとも変わりは無い。「私は猫ストーカー」は、「現実=ナマモノ」であることを強調して撮られているようでありながら、多くの細部が「うそです」と呟いている「かのよう」でもある。豊かさとは、実際にそうされたかではない。事実は確証し得ないが、どうやらこれは「かのようでもあり、かのようでもなし」と感じられるところの「あいだ」それ自体なのだ。

そうやって見て行くと、映画の中の登場人物、例えば古書店の店員、江口のりこなどは、撮り方によっては美人にもなれば不細工にもなるといった女優さんであって、それは坂井真紀にしても星野真里にしても、そして古書店の店主である徳井優、さらには人間ストーカー?宮崎将においても一貫して貫かれている。人相的に見て、彼らは見事に「中庸=あいだ」なのだ。

■「生き生き」したバカ

映画史には「現実」を「模倣」して撮られたものであれば「オリジナル」を想起させるものとしての「ナマモノである=生き生きとしている」という錯覚から無条件的に肯定され、知的にも多くの
(大部分の)知識人たちの満足を満たす媒体として利用されてきた歴史がある。逆に「オリジナル」を欠く多くのB旧映画については「現実」の不在による「生き生きとしないフィクション映画」として知的満足を満たすことができず蔑まれてきたという歴史が紛れもなく存在している。こうした映画史が現在、たたひたすら「生き生きとしている」かのように見えながら、実際には「オリジナル」という無時間的「外部(イデア)」に寄り添った、ひたすら「ほんとうらしい」だけの古臭い映画の氾濫を日常的に招いている。元来知識人とは、対象が「実在する場所」であれ「原作」であれ「時代」であれ、映画を「不可視のオリジナルと比較すること」によってみずからの「知的欲求」を満たし「生き生きと」することができるのであるが、目の前に現前する生き生きとした内部にはまったく反応できず、それを未知のものとして見ようとする好奇心すら欠いている。「知識人」とはそういうもので、だからこそ彼らは「知識人」と呼ばれるのであって、これはどうしようもない性癖なのだから、結局のところ、知識人に批評など頼む方がバカなのである。


鈴木卓爾の「私は猫ストーカー」は、外部に対する知的欲求をさり気なくやり過ごしながら、うそとほんとうとの「あいだ」を心地よさそうに揺れている。

映画研究塾2009.10.13

■参考文献
「酔眼のまち~ゴールデン街」たむらまさき・青山真治
「詩学」アリストテレス
「ヘーゲル読解入門」アレクサンドル・コジェーヴ
「デリダの遺言」仲正昌樹